私が3歳の時、
1歳半の妹は、予防接種による医療事故で重度の身体障碍者になった。
両親は出来る限りの事をしたと思う。でも、元に戻る事はなかった。
私のまねをして、舌足らずでおしゃべりしてた
柔らかなふわふわの笑顔の愛らしい妹は
食べる事ができなくなり、しゃべることができなくなり、
生涯オムツの生活となった。
当時は、まだ布おむつの時代で
私は小さな頃から、その始末や洗濯を手伝っていた。
日に何度も痙攣性の発作で、全身をひきつらせて呼吸もままならない
地獄の苦しみを、小さな体で懸命に耐えた。
生死の境を何度もさまよい、
入退院を繰り返し、何ヶ月も病院で過ごした。
全身に注射を打ち、身体がはれ上がり
しまいには打つ場所がなくなってしまった。
痛みと苦しみで、眠る事も出来ず、ずっと泣いていた。
舌が麻痺してしゃべることの出来ない口で
「あー!あー!」と泣いていた。
動く事はできても、自立歩行はできない。
24時間365日オムツのまま、食事も哺乳瓶から。
毎日何度も起こる強い脳性まひの痙攣。昏倒してケガをする事もあった。
学校に行く事もない、友達もできない。
愛する事も知らないまま、叶える未来の夢も見れない。
それでも身体は成長するし、喜怒哀楽もちゃんとあった。
(家族にしか分からなかったかも知れないけれど)
その無垢な笑顔が、どんなに家族を癒してくれたことか。
哀しいけれど、生理もあった。
妹は懸命に、自分の運命を生きていたと思う。
母は、いつも妹と共にあった。
自分の命を削るように愛し慈しみ、
幾度も忍び寄って来る死神から必死に妹の命を守っていた。
私は小さい頃から、母と一緒に遊んだ記憶があまりない。
でも、それは当たり前の事と感じていた。
元気でいる事、心配をかけない事が、私にできる一番のお仕事。
家の中を明るくしている事が、自分の大事な役目だと信じていた。
家族みんなで、妹を包むようにして暮らした。
その苦しみも悲しみも、全部家族で分かち合った。
家族の絆は、とても強かった。
やがて、歳の離れた下の妹が生まれ・・・
その子は元気で、いつも穏やかな笑顔で
一緒に上の妹を愛して、一緒に守るようになった。
母が上の妹にかかりきりだった分、
私はこの10歳年下の妹の小さな「お母ちゃま」だった。
幼稚園の行事、小学校の行事・・・高校の入学式までは私が行った。
小学生で子育てが始まった私は
自分に子どもが生まれても何の不安も戸惑いもなかった。
今では、認知症の母の介護の中心はこの妹だ。
「この年齢になって、やっとお母様と一緒の時間が
いっぱいもらえて嬉しいんだよね。」
そんな風に言うこの妹を、私は心から愛しく、そして誇らしく思う。
私たち姉妹の強い心の絆は、上の妹の壮絶な人生によって結ばれている。
命の重さが繋いだ絆。
1歳半で理不尽に奪われた自由な人生。一人では生きられない。
家族だけが、妹の世界のすべてだった。
そして、赤ちゃんの心のまま28歳まで生きてくれた。生き抜いてくれた。
それがどんなに大変なことだったか、健康な私には、想像もつかない。
最後の最後まで、家族全員に愛されて 妹は天へ旅立った。
妹は、何も悪い事などしていない。たった1本の注射が引き起こした。。。
残念だけれど、とてもとても残念だけれど、
世の中に理不尽は、確かに存在する。
妹の存在は、家族と親戚、ごく一部の人しか知らない。
まるで、みんなが共通して見た夢のような存在。
でも、あの妹がいたから今の私がいる。
あの妹の人生を見て、私は育った。
私の人生が、妹が生きていた証となる様な・・・
そんな生き方をしたいと思う。
どんな困難も、あの小さな妹が生涯受けた苦難に比べたら
笑ってやり過ごせる。
妹の人生に対して、妹の命に対して
恥ずかしいような生き方は絶対にしない。
命の重さ、命の儚さ、命の大切さ、
生きる事は奇跡の中にあるという事を、私は妹から教わった。
妹が自由に生きることが叶わなかった分も
私と、そして下の妹がしっかりと生き抜く。
どんな理不尽な出来事の中でも、
挫けたり、諦めたり、投げ出したりしたら 妹に顔向けできない。
生きたくて、生きたくて、生きたくて、
でも生きることが叶わなかった命に対して、恥ずかしい、申し訳ない。
だから、
勇気を奮い起し、いつも前を向いていく。
「絶望は愚か者の結論」とディズレーリは言った
私は、「絶望は勿体ない」と思う。
今、生きているこの毎日は奇跡だ。
人生は奇跡の積み重ねで出来ている。
今の日本が置かれた現実が、誰のせいの何のせいの理不尽であっても、
そんなものに負けてなんかいられない。
生きて、生きて、生き抜いてやる!自分に出来る事はなんでもやる!
理不尽になんか負けない、絶対に。
1歳半の妹は、予防接種による医療事故で重度の身体障碍者になった。
両親は出来る限りの事をしたと思う。でも、元に戻る事はなかった。
私のまねをして、舌足らずでおしゃべりしてた
柔らかなふわふわの笑顔の愛らしい妹は
食べる事ができなくなり、しゃべることができなくなり、
生涯オムツの生活となった。
当時は、まだ布おむつの時代で
私は小さな頃から、その始末や洗濯を手伝っていた。
日に何度も痙攣性の発作で、全身をひきつらせて呼吸もままならない
地獄の苦しみを、小さな体で懸命に耐えた。
生死の境を何度もさまよい、
入退院を繰り返し、何ヶ月も病院で過ごした。
全身に注射を打ち、身体がはれ上がり
しまいには打つ場所がなくなってしまった。
痛みと苦しみで、眠る事も出来ず、ずっと泣いていた。
舌が麻痺してしゃべることの出来ない口で
「あー!あー!」と泣いていた。
動く事はできても、自立歩行はできない。
24時間365日オムツのまま、食事も哺乳瓶から。
毎日何度も起こる強い脳性まひの痙攣。昏倒してケガをする事もあった。
学校に行く事もない、友達もできない。
愛する事も知らないまま、叶える未来の夢も見れない。
それでも身体は成長するし、喜怒哀楽もちゃんとあった。
(家族にしか分からなかったかも知れないけれど)
その無垢な笑顔が、どんなに家族を癒してくれたことか。
哀しいけれど、生理もあった。
妹は懸命に、自分の運命を生きていたと思う。
母は、いつも妹と共にあった。
自分の命を削るように愛し慈しみ、
幾度も忍び寄って来る死神から必死に妹の命を守っていた。
私は小さい頃から、母と一緒に遊んだ記憶があまりない。
でも、それは当たり前の事と感じていた。
元気でいる事、心配をかけない事が、私にできる一番のお仕事。
家の中を明るくしている事が、自分の大事な役目だと信じていた。
家族みんなで、妹を包むようにして暮らした。
その苦しみも悲しみも、全部家族で分かち合った。
家族の絆は、とても強かった。
やがて、歳の離れた下の妹が生まれ・・・
その子は元気で、いつも穏やかな笑顔で
一緒に上の妹を愛して、一緒に守るようになった。
母が上の妹にかかりきりだった分、
私はこの10歳年下の妹の小さな「お母ちゃま」だった。
幼稚園の行事、小学校の行事・・・高校の入学式までは私が行った。
小学生で子育てが始まった私は
自分に子どもが生まれても何の不安も戸惑いもなかった。
今では、認知症の母の介護の中心はこの妹だ。
「この年齢になって、やっとお母様と一緒の時間が
いっぱいもらえて嬉しいんだよね。」
そんな風に言うこの妹を、私は心から愛しく、そして誇らしく思う。
私たち姉妹の強い心の絆は、上の妹の壮絶な人生によって結ばれている。
命の重さが繋いだ絆。
1歳半で理不尽に奪われた自由な人生。一人では生きられない。
家族だけが、妹の世界のすべてだった。
そして、赤ちゃんの心のまま28歳まで生きてくれた。生き抜いてくれた。
それがどんなに大変なことだったか、健康な私には、想像もつかない。
最後の最後まで、家族全員に愛されて 妹は天へ旅立った。
妹は、何も悪い事などしていない。たった1本の注射が引き起こした。。。
残念だけれど、とてもとても残念だけれど、
世の中に理不尽は、確かに存在する。
妹の存在は、家族と親戚、ごく一部の人しか知らない。
まるで、みんなが共通して見た夢のような存在。
でも、あの妹がいたから今の私がいる。
あの妹の人生を見て、私は育った。
私の人生が、妹が生きていた証となる様な・・・
そんな生き方をしたいと思う。
どんな困難も、あの小さな妹が生涯受けた苦難に比べたら
笑ってやり過ごせる。
妹の人生に対して、妹の命に対して
恥ずかしいような生き方は絶対にしない。
命の重さ、命の儚さ、命の大切さ、
生きる事は奇跡の中にあるという事を、私は妹から教わった。
妹が自由に生きることが叶わなかった分も
私と、そして下の妹がしっかりと生き抜く。
どんな理不尽な出来事の中でも、
挫けたり、諦めたり、投げ出したりしたら 妹に顔向けできない。
生きたくて、生きたくて、生きたくて、
でも生きることが叶わなかった命に対して、恥ずかしい、申し訳ない。
だから、
勇気を奮い起し、いつも前を向いていく。
生きている限り、出来る事は沢山ある。
希望を見つけて、知恵を絞って生き抜く。「絶望は愚か者の結論」とディズレーリは言った
私は、「絶望は勿体ない」と思う。
今、生きているこの毎日は奇跡だ。
人生は奇跡の積み重ねで出来ている。
今の日本が置かれた現実が、誰のせいの何のせいの理不尽であっても、
そんなものに負けてなんかいられない。
生きて、生きて、生き抜いてやる!自分に出来る事はなんでもやる!
理不尽になんか負けない、絶対に。