2015/12/12

人を見る事は、 自分を見るよりは ずっと簡単で楽にできる

物理的・精神的、両方の意味で

人を見る事は、

自分を見るよりはずっと簡単で楽にできる。


でも、

見えた気になっているものが

真実かどうか

確かめることはできない。


だから、

知った顔で人を語るのは

大人であればあるほど、

本当は、

けっこう恥ずかしいことなのだろう。



自分を見る事は、

容易ではないかも知れないけれど

きちんと向き合えば

見えてくるものは必ずあるはず。



だって、

生まれた時から片時も離れることなく

今までずっと、一緒に生きてきたのだから。


気がつかないふりをしていても

全部ちゃんと知っていることばかり。



人を動かすことは簡単ではないし、

仮に、出来たとしても

した方もされた方も

実はあまり楽しくはない気がする。



本当の意味で人を変える事は、

多分、本人以外には出来ない。



ありがたいことに、

自分自身は、

意識と行動で、

どんどん変えていくことが出来る。



どちらを動かすことの方が、

自分や人の幸福にとって

すんなりと役立つか



静かに考えてみれば、

誰にでも、

ごく自然に分かることなんだろう。



2015/12/10

言葉に出来ないことの方が多いんだ

自分の気持ちを、上手に

言葉という形に出来るのは才能なんだろう


それを持つ人が少しうらやましい


言葉にするのは、

誰かに届けたいからかも知れないし


その誰かは、
未来の自分なのかも知れないし


それでも、
何かに、表さずにいられない思いというものは
誰にでもあるのだ


その手段・方法を、
見つけられないままに

もしくは、
誰かや何かに許されないような気がして


あるいは、傷つくことが怖くて
内に押しとどめたままにしていたら


いつか、叫び出す時が来るんだろう



人は、自分を、
外に向けて放つ時が必ずくる


身ひとつでやってきて

身ひとつでいくのだよ


それまでの、長かったり短かったりする期間

何を持とうが、何をつかもうが、


持っていけるのは、その身ひとつ

その心ひとつ


その『ひとつ』は、

誰かの何かの役に立っただろうか?


2015/12/09

私が大人だと、誰が決めたのだろう?

私が大人だと、誰が決めたのだろう?


何もかもを、静かに受けとめられることを

大人だと・・・、


誰が定義するのだろう?




私が子どもだと、誰が決めたのだろう?


自分を傷つけるものを

遠ざける自然を、「未熟」だと、

誰が定義するのだろう?


生まれてきた事の恵みの深さを

まっすぐに感じ取る前に


誰が、実感の無い「意味」を勝手につけたのだろう?



私は、生きていたい。



この命の意味を、自分以外の誰かに委ねることなく

しっかりと、でも静かに、

魂に刻む機会を 


呼吸のように、自然に   

丁寧に、時を刻みたい。


そんな風に生きることを、

望む意味すら知らないままに

逝ってしまった妹の分も・・・


私は、何にも屈することなく、

この生を抱きしめたいのだ。