2020/03/11

新たなる脅威に直面し、思い出す2011年

2011年3月11日に突如として始まった『影響が継続的で、今までに無い状況』。

東日本大震災の時に、私はたまたま首都圏の隅っこにある、
とあるセレクトショップの中にいた。

断続的に長く続く揺れに、ちょっと通常ではない異変を感じつつも
ディスプレイにガラスの棚が沢山並んでいる店内ゆえ迂闊には動けず、
ちょっとした揺れのすき間のタイミングで店舗の外に出た。

これ、現実?

揺れる電柱、うねる電線。
立っていられなくてしゃがみ込む幾人かの高齢者。
止まってしまった電車、消えてしまった街の明かり。
近くの商店や歯科医院などから飛び出したものの所在なく
呆然としている人々。

大きめの地震が起こったんだな・・・くらいしか分からなかった。

電気がないと、文明の利器は結構もろい。
しかも、独立電源の携帯もつながらないから、情報も入らない。

その時、家族は丁度 東京・神奈川・埼玉・山口の4箇所にいて
何処とも誰とも、連絡は一切取れなかった。

何が、どの位の範囲で、どの程度の規模で起こっているのかも、
皆目見当も付かなかったけれど、
幸いにも周囲に大きな怪我人もなく、
止まってしまっている電車を横目に徒歩で家までたどり着いた。

・・・真っ暗になってしまっていたけれど。

明け方前に突如復旧した電気でテレビがついて、
初めて見た映像が真っ黒な津波だった。

途轍もない地震と津波が日本を襲ったのだと、その時に知った。
家族全員の安全は確認できたけれど、家までたどり着けたのは2人だけ。
残りは別々の場所で不安な朝を迎えた。

山口にいた家族は、若干心配をしていたものの
事態の深刻さの認識には、結構な温度差があったと後で知る事になる。

そこから始まったチーム首都圏のなかなかに難儀な日々。
チーム長州は、さほどいつもと変わらぬ日常だった模様。

しかし、なんとこのタイミングで認知症の母の状況が悪化。
総選挙常にトップで不動のセンターだった私は、
チーム首都圏から一時的に離脱、チーム長州へ期間限定移籍する事となる。

その後、さらに激動の状況変化は続き、
首都圏の隅っこと本州の端っこをバタバタと行き来することとなる。

そこから気がつけば9年だ。

単純ではない事情があれこれ絡まって、
今は東京・埼玉・群馬・山口・福岡の5箇所に住まう家族。
まあ、こうやってブログや、メール、たまにはskypeなんてのも使いつつ
それなりに情報交換は行っている。

そして2020年。

新型コロナという新たなる脅威にさらされ、
5箇所で、それぞれ提供し合えるものを分け合って品物不足に対応している。

9年前と違うのは、
今回の脅威には場所による危機感の温度差があまりないこと。

マスクが手に入らない。
トイレットペーパーがない!

これ、現実?

新しく始まった『影響が継続的で、今までに無い状況』に対して、
9年前の経験は、どのくらい役に立つだろうか?

この9年間で、なにがしかの成長や進化はあったのだろうか?


オリンピックの開催も、今やちょっと不安な状況・・・

というか、延期するのが正解なのだろうな。

こんなことが起こるなんて!


いやいや、生きよう、生き残ろう。

そのために出来る事は全部やろう。

腹にグッと力を入れて、背中をしゃんと伸ばして、前見ていこう。