世の中にピカピカの正常などない、
自分だけはならない異常もない。
誰もが、なにがしかの生きづらさを抱えている。
それは異常ではなく故障である。
バリアフリーのように心の生きづらさをカバーする仕組みを作れば
限りなく故障は少なくなるはずである。
その手始めが「正常こそ善」という神話を忘れることではないだろうか。
大正大学教授でもある精神科医の野田文隆さんが書かれた記事を読んだ。
うちには20代の「これから世代」が2名いるので、
それに合わせて『サンケイExpress』という新聞を購読している。
その中に、
野田文隆医師の『正常という精神』というのがある。
時々読んでは、
思いあたる事に対して自分なりに考えてみる。
まあ、答えなんかはでやしない。
でも、この「考えてみる」ってのも大事かなと思って。
『「異常」ではなく故障と考えて」』という
サブタイトルのこの記事は1月22日付のものだ。
自分の事はそれなりに分かっても、
人の事は分からない。
妹の友人が『鬱』になった時、
「頑張れって言わないで!って言われちゃった」って
妹が言っていた。
本人の辛さと周囲が想像する辛さとは、乖離があって当然だ。
想像力というものは、
その人が生きてきた過程で培われるものだから
健康に恵まれた人々ばかりの環境で育った人と
自分が病人だったり、
身近に病人のいる環境で育ってきた人とは
『病気』に対して理解の深度に差があるのは当たり前のことなのだ。
では、その差異に関わらず・・・できる事ってなんだろう?
もの心ついた時から家族に重度の障害者がいた私は
まあ、それなりの偏見にさらされて育った方かも知れない。
その分、自分自身が意味のない偏見を持つ事は少ないが、
「世間様」ってやつの偏見には疎いかもなあ…。
自分とは異質だと感じた者に対して人が取る態度は様々だ。
その個人個人の判断の基準、元になっている意識は
果たしてどこから来ているのか?
そう言う事をちょっと考えてみる機会を持つのは良い事だと思う。
経験していない事に対して、
人は自分のこれまで身につけた価値基準に基づいた想像力で対応していく。
さて、想像力はどこまで追いかける事が出来るだろうか?
その先の未来に、
自分が『当事者』にならない保証なんて、どこにもないんだよね。
(以下、野田文隆医師の書かれた記事の全文です)
よく「精神科医は黙っていても人の心が読めるんでしょう?」と言われる。
超能力者ではないからそんなことはできない。
ひとつひとつ 丹念に聞いていって、
しぐさや表情なども見て、問題の糸口を探り、見立てにいたる。
それは修理工のやり方に似ている。
もっとも困るのは
「私が正常かどうか 診断してください」と言ってこられる場合だ。
はたと考えてしまうのは、
いったい何が「正常」なのかということだ。
その裏には嫌な言葉だが、
何が「異常」なのかという問題が含まれている。
「具合が悪い」人々はいろいろな訴えがあるが、
このままでは日常生活が立ちゆかないという共通する問題がある。
受診は、
「このままでは走れませんよ」と言って修理屋さんに車を持っていく状況に似ている。
日本ではバンパーがへこんだだけでももっていく。
でも、イタリアではそんなのは平気の平左である。
車は見かけではなく走ればいい。
日伊の間ではこんなに車の正常観が違うのである。
病の正常観にも似たことが言える。
個人、家族、地域、社会の在り方や文化によって大きく異なる。
うつになれば1年に3カ月は休む人でも、
それを許すゆっくりとした社会に暮らしているなら
受診には至らないかもしれない。
一昔前、
とある統合失調症の人が炭焼き小屋に籠って炭を焼いていた。
時々村へ下りて炭を売った。
村人はそんな人だと思っていた。
町から保健師さんがやってきて啓発教育をするために全戸訪問し、
その人の統合失調症をみつけ治療につないだ。
以来、炭焼きと村人との心の絆は切れた。
世の中にピカピカの正常などない、
自分だけはならない異常もない。
誰もがなにがしかの生きづらさを抱えている。
それは異常ではなく故障である。
バリアフリーのように
心の生きづらさをカバーする仕組みを作れば
限りなく故障は少なくなるはずである。
その手始めが
「正常こそ善」という神話を忘れることではないだろうか。
(サンケイExpress 2013年1月22日掲載 より)
自分だけはならない異常もない。
誰もが、なにがしかの生きづらさを抱えている。
それは異常ではなく故障である。
バリアフリーのように心の生きづらさをカバーする仕組みを作れば
限りなく故障は少なくなるはずである。
その手始めが「正常こそ善」という神話を忘れることではないだろうか。
大正大学教授でもある精神科医の野田文隆さんが書かれた記事を読んだ。
うちには20代の「これから世代」が2名いるので、
それに合わせて『サンケイExpress』という新聞を購読している。
その中に、
野田文隆医師の『正常という精神』というのがある。
時々読んでは、
思いあたる事に対して自分なりに考えてみる。
まあ、答えなんかはでやしない。
でも、この「考えてみる」ってのも大事かなと思って。
『「異常」ではなく故障と考えて」』という
サブタイトルのこの記事は1月22日付のものだ。
自分の事はそれなりに分かっても、
人の事は分からない。
妹の友人が『鬱』になった時、
「頑張れって言わないで!って言われちゃった」って
妹が言っていた。
本人の辛さと周囲が想像する辛さとは、乖離があって当然だ。
想像力というものは、
その人が生きてきた過程で培われるものだから
健康に恵まれた人々ばかりの環境で育った人と
自分が病人だったり、
身近に病人のいる環境で育ってきた人とは
『病気』に対して理解の深度に差があるのは当たり前のことなのだ。
では、その差異に関わらず・・・できる事ってなんだろう?
もの心ついた時から家族に重度の障害者がいた私は
まあ、それなりの偏見にさらされて育った方かも知れない。
その分、自分自身が意味のない偏見を持つ事は少ないが、
「世間様」ってやつの偏見には疎いかもなあ…。
自分とは異質だと感じた者に対して人が取る態度は様々だ。
その個人個人の判断の基準、元になっている意識は
果たしてどこから来ているのか?
そう言う事をちょっと考えてみる機会を持つのは良い事だと思う。
経験していない事に対して、
人は自分のこれまで身につけた価値基準に基づいた想像力で対応していく。
さて、想像力はどこまで追いかける事が出来るだろうか?
その先の未来に、
自分が『当事者』にならない保証なんて、どこにもないんだよね。
(以下、野田文隆医師の書かれた記事の全文です)
よく「精神科医は黙っていても人の心が読めるんでしょう?」と言われる。
超能力者ではないからそんなことはできない。
ひとつひとつ 丹念に聞いていって、
しぐさや表情なども見て、問題の糸口を探り、見立てにいたる。
それは修理工のやり方に似ている。
もっとも困るのは
「私が正常かどうか 診断してください」と言ってこられる場合だ。
はたと考えてしまうのは、
いったい何が「正常」なのかということだ。
その裏には嫌な言葉だが、
何が「異常」なのかという問題が含まれている。
「具合が悪い」人々はいろいろな訴えがあるが、
このままでは日常生活が立ちゆかないという共通する問題がある。
受診は、
「このままでは走れませんよ」と言って修理屋さんに車を持っていく状況に似ている。
日本ではバンパーがへこんだだけでももっていく。
でも、イタリアではそんなのは平気の平左である。
車は見かけではなく走ればいい。
日伊の間ではこんなに車の正常観が違うのである。
病の正常観にも似たことが言える。
個人、家族、地域、社会の在り方や文化によって大きく異なる。
うつになれば1年に3カ月は休む人でも、
それを許すゆっくりとした社会に暮らしているなら
受診には至らないかもしれない。
一昔前、
とある統合失調症の人が炭焼き小屋に籠って炭を焼いていた。
時々村へ下りて炭を売った。
村人はそんな人だと思っていた。
町から保健師さんがやってきて啓発教育をするために全戸訪問し、
その人の統合失調症をみつけ治療につないだ。
以来、炭焼きと村人との心の絆は切れた。
世の中にピカピカの正常などない、
自分だけはならない異常もない。
誰もがなにがしかの生きづらさを抱えている。
それは異常ではなく故障である。
バリアフリーのように
心の生きづらさをカバーする仕組みを作れば
限りなく故障は少なくなるはずである。
その手始めが
「正常こそ善」という神話を忘れることではないだろうか。
(サンケイExpress 2013年1月22日掲載 より)