■幼稚園や、小学校の低学年の頃・・・
大抵の子ども達が言われているはずの言葉。
「相手の立場になって考えましょう」
言われた頃が遠い遠い過去になってしまって
そこから幾星霜を過ごし、
そこそこの分別も身についた(はずの)今、
改めて、この言葉を考えてみる。
■「相手の立場になって考えてみましょう」
実はこれは、
子どもにとってどころか、大人にだって、
なかなかに高度な技術を必要とするのではないか。
だって、
誰にだってそう言う記憶があると思うけど、
自分の気持ちにだけ素直なお年頃のお子達だ。
次から次へ自然に湧いてくる欲求・欲望、
- あれが欲しい、
- これがしたい、
- それを食べたい、
- あそこに行きたい、
このシンプルな思いに抗えないお子達には、
「自分自身を客観視すること」すら難しいはず。
いわんや、
自分以外の人の気持ちになって考えるなんて
正直、「え、なに、それ?」なんじゃなかろうか。
■大人だって、そうなんじゃないか?
別の人物になりきる必要のあるお仕事の方達、
俳優さんだったり、
ある種の(主に夜間の)接客業だったり、
または、
問題解決のために、
相手をしっかりと理解する必要のある
カウンセリングやコンサルティングのような
相談のお仕事に携わる方々、
あるいは、
医療従事者や関係者、介護やケアなどに携わる方々、
もしくは、
何らかの『憑依』を受け入れ可能な能力を有し、
それをお仕事とするような特殊な生業の方々とか
そういう皆さんには、
「相手の立場になって考える」事は、
必要不可欠な能力で、
そう言ったことにも慣れているかも知れない。
■でも、一般的には、
どんなに想像力を駆使したとしても、
そこそこ主観的な思い込みやバイアスが残るのは
どうしたって否めない。
だって、
もともと 別の人間、違う人格なんだもん。
だから、
「相手の立場になって考えましょう」というのは、
想像できる範囲で、
自分にとっても相手にとっても
よりよい結果に結びつきそうな言動をしましょう。
・・・ということなんだろう。
そういうことを幼いお子達に理解してもらうのは
本当に難しいことだと思う。
■でも、それができると・・・
そう言うスキルを身につけると、
ものすごく、生きるのが楽になっていくはず。
だから、お子達には
「ちょっとだけ、〇〇ちゃんの気持ちになって考えてみようか」
「もし、あなたが〇〇ちゃんだったとしたら、どんな風に思うかな?」
・・・これくらいが丁度よいと思える。
いや、大人にだって これは当てはまるよね。
相手の気持ちを理解しようとする気持ちが、
ほんの少しでもあれば、
そして、あればあるほど、
自分の中の苛立ち、怒り、不快感、不安感、
ネガティブな感情が薄れ、
心が軽くなっていくと思う。
■影響されやすくなれ、と言うのではなく
自分は自分として、シッカリと自我があってよい。
そうでなければ、
本当の意味で「相手の立場になって考える」ことも難しい。
考えなしに相手に迎合してばかりでも、
その先、お互いに得るものの質も
決して高くはなさそうだしね。
まあ、人によっては
どうしたって理解不可能な
奇妙な世界観や価値観の人もいる。
そういうのは、
とりあえず上手に距離を取るしかない。
でも、それは自分の経験不足などで、
理解度が及んでないせいかも知れないし、
あまりにも異なる価値観に対して、
恐怖や嫌悪や拒絶は
大なり小なり誰にでもあるはず。
それでも、
人間としての最低限のモラルをクリアしつつ、
自分の許容量が拡大し、
揺るがない「自分」と言うものができてくれば
大抵の他人に対して、
その気持ちを慮ることは可能になる・・・はず。
■年齢・性別・国籍・職業・経歴・性癖 etc.
どのようなスペックの相手に対しても
「相手の立場になって考えてみる」
という経験を重ねて、
そのような「相手になれる」スキルを持てば、
そこから、色々と面白い展開が始まりそうな気がする。
取りあえず、
家族の中の誰かになってみて考えてみよう。
どんなことでも構わない(笑)
- 今日の晩ご飯は何を食べたいか
- 今、何が一番欲しいか
- 私に対して、何を望んでいるのか
- 今年のおうちハロウィーンの仮装は何がしたいか
- 私に対して、恐くて面と向かって言えない一言は何か
(あれ?考えたくない事もあったな、いま)
■想像力を領域展開!
まるで、子どもの頃の
『ごっこ遊び』のように楽しいじゃないか!
そして、可能なら、
後から本人に答え合わせをしてみても、また楽しい。
誰だって、
自分のことを真剣に考えてくれるのは
そんなにイヤじゃないはずさ。
さて、今年の「おうちハロウィーン」は何しよう?