2012/09/18

家族が退院した

入院していた家族が退院した。
9日間の入院だった。

2年前は手術をして、
1ヶ月の入院の後さらに1ヶ月のリハビリだったから
それに比べれば、まあ大した心配事ではなかったかも知れない。

生きていれば、本当にいろんな事がある。

でもまた、
生きてさえいれば、いろんな事も何とかなる。
そんな風に思いながら通った。


病院に通う中で、幾つかの出会いがあった。
その時だけの関わりであっても、
心に残る触れ合いもある。

ああ、本当に病院は『命の現場』なのだなと思った。

病んだり傷ついたりした心や体を治し癒す。
新しく生まれる命もあれば、この世を去りゆく命もある。

長い間家族に重い病気の者がいたし、
治療に長くかかる持病がある者もいるので
これまで病院に関わる事も結構多かった。

待合室で、診察室で、病室で、
お医者様や看護師さんや検査技師さん、医学療法士さんなど
医療に携わる方々を見ながら
この世界で働く人に、普通の職業とは何か違うものを感じていた。

それは、やっぱり『命』に直接関わる世界だったからなんだな。


退院の当日に、ほんの少しだけ
天に召された方のご遺族にお話を伺う事があった。

死ぬと言う事は、本当にどうしようもない現実で
触れる事も話す事もできなくなる。

頭では分かっている事なのに、
それをどうしても信じることができない、納得ができない。
苦しくて、寂しくて、たまらない気持ちになる・・・と。

でも、残された者同士で話しているうちに
深い悲しみは徐々に静かな祈りに変わる…
そして、結局は良い思いしか残らないのですと。



もうじきママになる沢山の幸せそうな笑顔も見た。

大きなおなかを愛しそうに撫でながら
周囲の人に向ける眼差しも、慈しみで包み込むように優しい。

赤ちゃんは、お腹にいても生まれてきても
まわりにいるみんなを幸福な気持ちにさせてくれる。

どうぞお健やかに、お幸せにと願う気持ちが自然にわいてくる。


「生きているのではない、生かされているのだ」
という言葉を目にしたり耳にしたりする事がある。

言わんとしている意味もよく分かる。

でも、やっぱり「生きている」のだと思う。

生きると言う意志を表に明確に示さなくても
また、仮に自分では意識していなかったとしても
生きている人はみんな「生きる!」と命が叫んでいる気がする。


いじめに耐えきれず、自ら未来を絶った若い命の話に心が痛む。

その傷ついた心も、
きっと「生きたい!」と叫んでいたような気がする。

残された者たちの張り裂けるような悲しみを
思いやるゆとりなどない程に、傷つき追い詰められ
逃げ場を見失い絶望の果ての選択だったのだろう。

死にたかったのではない。
ただただ、その苦しみ悲しみから逃れたかっただけなのだ。

生きたかったのだ。
生きたかったから、苦しかったのだ。悲しかったのだ。


生きていても、その苦しみから逃れる術は必ずあると、
生きているからこそ見つかるのだと、
理解者も、味方も、守護する者もどこかに必ずいるのだと、

幸せの場所は、生きていたら必ず見つかるのだと、
世界は、思うよりずっとずっと広いのだと、

誰かが、教えてあげる事ができたなら・・・

別の選択肢はもっともっとあったはずだ。
その先の、未来へつながる選択が。


今回の家族の入院は、
改めて『命』について考える機会となった。

見えないモノについて考えた事を文章にして伝えるのは
なかなか難しいけど。。。

みんな誰でも1つしか持っていない『命』

いや、1つ持っていれば充分なのだ。

生きていれば、いろんな事が起こるけど
生きてさえいれば、いろんな事も何とかなる。

…と、私は信じている。

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