■「趣味は『親孝行』」という言葉を聞いた。
離れて暮らしている親御さん達と、
月に数回程度、食事会や旅行など一緒の時間を過ごすことを
長年の習慣としているという。
既に両親ともに見送った私は、
この回答に、瞬間、淋しさや切なさを感じてしまった。
それなりの年齢ではあったし、
ある程度の覚悟はあったのだけれど。
■失ってから気がつく、より具体的に
もう、喜んでもらうことは出来ないのだ。
もう、何もしてあげることは出来ないのだ。
記憶の中の、なんてことの無い会話一つ一つが
何と大切な時間だったことか。
幾つになっても、親は親なんだな。
年を重ねれば重ねるほど、
様々な経験が増えるほど、
自分に対する親の思いを理解しやすくなり、
より複雑な感情を抱きしめることとなる。
親が嬉しそうな様子には
本当に心が満たされる幸福感を感じた。
でも、もう失ってしまったのだ。
触れることも、言葉を交わすことも、
2度とは出来なくなってしまったのだ。
何という淋しさ
何という切なさ
何という喪失感
何をやってたんだ?私は。
もっともっと、できることはあっただろう?
動かせない過去にウダウダしても仕方ない。
この感情の出口を見つけるしかない。
■もし、私が残していく方だったら?
もし、自分が家族を残して旅立った方だったら?
言葉を掛けることが出来なくなってしまった私は
どう思うだろうか?
・・・幸せであってくれたら嬉しい。
元気で、つつがない毎日を重ねてくれたら
もう、それだけでいい。
それを眺めているだけで、充分幸せに思う。
で、時々、家族で思い出話なんてしてくれたら
それで笑っていてくれたら、最高に幸せ。
・・・ああ、そうか、こんなところに答えがあった。
■私が幸せなら、家族も幸せなんだと・・・決める
こういう基準は人それぞれだから、
これは私の個人的な「最適解」。
「私が元気で幸せである事が、
先に旅立った家族の喜びになる!」
そう決めてしまえば、
会えなくなっても出来る親孝行は
私の中には間違いなく存在するのだ!
思い込みでも何でも良いじゃないか。
自己満足でも良いじゃないか。
心が深呼吸する、楽になる。
■では、「私の幸せ」とは?
では、会えなくなった家族を喜ばせるような
「私の幸せ」って何だろう?
私の幸福感の基準は、条件は、何だろうなあ・・・
これを、具体的に設定してみたいな。
大丈夫、私は元気ですよ。
いつか、もう少しだけ未来に
そっちのみんなに会える日が来たら
ちょっとはほめてもらえるように・・・
今を楽しみながら、過ごしていますよ。