2012/04/07

月の天使

ツイッターのフォローもフォロワーも、
わらわらと収拾がつかなくなっていたので、久しぶりにザッと見てた。
…節操がない、としか言えない。
確かに、フォローされてし返さないものは少ないから。

とりあえず自分がフォローしている分をじーっと見ていたら…
ある人のツイートで止まってしまった。

一瞬息が止まるような言葉があったから。

それから、そのツイート先の方のところへ飛んだ。
そして、その方のツイートを遡って読み始めた。



今は言葉にならない。

ただ2つの魂のご冥福を心から祈るだけだ。

壮絶な闘病を越え、今は安らかになった小さな無垢の魂。
まるでその子が寂しくないようにと先にいって出迎えるために
ちょっとだけ先に天に昇ったようなお祖母ちゃまの魂。

残されたご家族のお気持ちを思うととても胸がいたむ。

愛する者を失った悲しみは、いつまでも消える事はない。
ただ、時の流れの中で少しずつ諦めるしかないことを悟り
胸の奥に深く深くしまいこまれていくだけなのだ。

祈ることしかできない。
どうか安らかに、今は安らかに…と。



**************

月乃ちゃんという、とても愛らしい女の子です。

小児びまん性脳幹グリオーマという難病で、
昨年の10月24日に緊急入院、4月5日に亡くなられました。
わずか4歳…

『松ぼっくり』さんのツイートには
月乃ちゃんへの愛が切ないほど溢れ、涙が止まりません。

私には何もできないし、何も言えないけれど
月乃ちゃんが天国で
お祖母ちゃまと一緒に安らかでいることを心から祈ります。 


追記:2012年4月11日

※以前、コメント欄に書いていたものです

愛する者を失った悲しみは、いつまでも消える事はなく
ただ、時の流れの中で少しずつ諦めるしかないことを悟り
胸の奥に深く深くしまいこまれていくだけ…

妹が天に召された時のこと、今でもハッキリと覚えている。

まるで微笑みながら眠っているようなのに
腕の中で次第にぬくもりが失われていく。
命の愛しさ、本当にかけがえがない。
慟哭とはこの事なんだと、あの時初めて知った。

その喪失感と苦しみは、誰にも救えない。
自分で立ち上がらなければ、決して歩き出せない。

失われてしまったその命、その生を、
意味あるものにする為にも
残された人間は自分の生き方を深く見つめ直す。

愛しい人の命を胸に抱いて生きるんだもの。
ちゃんとまっすぐ歩いていかなくちゃって思う。

月乃ちゃんの生は、たくさんの人の心に届いた。
命を大切にして生きてねって…
たくさんの人がメッセージを受け取った。

そんな風に思う。

 


追記:2012年6月26日

※松ぼっくりさんがツイッターを再開された事を知り、私がツイートしたもの。

溢れる愛しさと慈しみの思いを止めることなんてできないし、
同時に失った悲しみや切なさも消える事は無いと思います。

ただ、その中で静かに静かに形を変えた『愛』が月乃ちゃんの命を永遠にする。
残された人の生き方によって生かされていく命の在り方…そんな風に思います。

松ぼっくりさんがツイッターを再開されました。
まだまだお辛いでしょうに、
月乃ちゃんへの深い深い思いがあっての事だと思います。

愛や命や、目に見えない大切なものを
見つめ直し考え直すきっかけを与えてくれる…
月乃ちゃんの命が、新しい形で鼓動を始めたような気がします。




追記:2012年8月27日

今日見たら、
この記事のアクセス数が突然増えていて驚きました。
何かあったのだろうか?と思って
松ぼっくりさんのツイートを見に行きました。

ツイートを読んだだけではよく分からなかったけど
『24時間テレビ』で月乃ちゃんの事が紹介されたのでしょうか。
だとしたら、見逃してしまって残念です。

それをきっかけに、 
小児びまん性脳幹グリオーマという難病について
多くの人が知るようになり、
治療についての研究が進めば良いと心から思います。

でも、テレビで紹介された事で何か誤解のようなものが生れて、
そのせいで松ぼっくりさんが中傷されるような事があった?
そんな印象を受けました。

もしそうだとしたら・・・本当に悲しい事です。

でも、
愛する家族を難病で失った事のない人には
理解できない気持ちもあるんだろうな…
と、そんなふうに受け取るしかないかも知れません。

自分が経験した事のない出来事については、
理解しようとしたら想像するしかないのですが、
その『想像』という行為は
自分の人生での経験に基づいた情報や知識や理解が基準なので

端的に言ってしまうと、
その人自身の人間性や価値観が
ある程度投影されているものだと思います。 

だから、他人を非難や中傷する言葉には
その使う単語や表現に、その人自身が表れていると思うのです。

人の身になって考えると言う事は、
口で言う程簡単ではない事が多いです。

人の事は、本当に分からないものです。
だから、
自分の事も分かってもらえてはいないと考えた方が
よいのだと思います。

でも、
生きていればいろんな事が起こるもの。

人ごとだと思っていた現実が
自分の目の前に立ちふさがることだって無いとは言えません。

思いもかけない運命の流れによって
過去に自分が人に向かって投げた言葉が
自分自身に返ってくる事が無いとは決して言い切れません。

過去の自分が発した言葉の持っていた意味を
初めて実感として受け止めた時に知るのは
はたして救いでしょうか、後悔でしょうか。

真実は強いです。

どんなに誤解されても、理解されなくても
自分なりに真っ直ぐ生きていれば
誰かを恨む事もなければ、絶望する必要もありません。
 
分かってくれる人は必ずいますし、
時の流れが緩やかに正してくれる事もあります。

声の大きな人の言う事がいつも正しいとは
誰も思っていないと思います。

…声が大きいからちょっと目立つだけです。

愛する子どもを失った、それだけでも十分すぎる苦しみです。
それ以上、他の人から苦しめられるいわれはありません。

曲解する人は、何をどう言っても曲解します。
或いは、面白半分に揶揄したり非難したりします。 

でも、その人達が実際に何か出来るかと言うとそうではありません。
自分の気持ちを垂れ流すようにただ言うだけです。

投げられた悪意の言葉は流してしまえばよいのです。
いつまでも抱えたり眺めたりする意味はありません。

少しずつ少しずつ悲しみを越えて、
前を見つめて未来に向かって生きていくことが
残された家族に出来る愛の証です。

月乃ちゃんとおばあちゃまは、
きっと天国からパパやママを見守ってくれていると思います。