2012/04/01

『嘘』について少し考える

むかしむかし、
アメリカのとある病院での出来事。


結核で、


余命あと少しと宣告された患者ばかりが入院している病棟。


当時まだ結核は『不治の病』。


治らない病気、ただ死に向かう病気。

そして、

感染するからと、外の世界とは隔絶されていた。



その病室には7人の患者がいて、


細長い病室の中、ベッドは1列に並んでいた。

窓は一番奥にたった一つ。




みんな寝たきりの患者ばかりで、


一番奥の、窓際のベッドのジミーだけが、


窓の外の景色を見ることができた。


ジミーは毎日毎日、窓の外の様子を、


同じ部屋の人たちに聞かせてあげていた。


「今日はとてもお天気がよくて、チューリップがきれいに咲いてるよ」

 

「あ、子供達が遊んでるよ。手をつないだりして、可愛いなぁ。」
 


苦しい闘病生活の中、

同じ病室のほかの患者も、

ジミーの話が唯一の楽しみになっていた。

 

でも、ある日突然

ジミーは何も教えてくれなくなった。

病気が進行し、亡くなってしまったから…



同じ病室にトムという患者がいた。


トムは、

ジミーばかりが外の風景を独り占めしていることを

前々から面白く思っていなかった。


 

そして、ジミーが亡くなった後、

看護婦にすかさず、

自分を窓際のベッドに変えるよう頼んだ。


看護婦は困った顔をして渋ったが、

トムがあまりにしつこく、

怒鳴ったりもするのでとうとう承諾した。

 

トムは大喜びした。
 

「でも俺はジミーのように、

 みんなに外の様子を聞かせることなんかしない。

 思う存分、一人で外の景色を楽しむんだ!」
 

窓際に移ったトムは、

期待に胸を膨らませて窓の外を見た。


でも、そこには

きれいなチューリップも、可愛い子供達もいなかった。

何にもなく、


見えるのは隣のビルの灰色の壁だけ。


 

トムはすべてを悟った。 



ジミーは、

同じ病室のみんなを少しでも喜ばせようと、

見えもしない楽しげな風景を、

灰色の壁を見つめながら

一生懸命自分で作って話していたのだと。


 

トムは、初めてジミーのために涙を流した。

そしてそれから後、トムはジミー以上に、

窓の外の『素敵な景色』を、

みんなにたくさん話して聞かせてあげた。



これは、むかしむかし、
アメリカのとある病院での出来事。

****************************

今日は4月1日、エイプリルフール。

笑い話になるような、他愛もない嘘が許される日。

『嘘』をついてもいい日が、

1年365日の中のたった1日だけだなんて

人間って基本的に善き存在なんだろうなと思う。

でも、実際には世の中には

『嘘』はいっぱいころがっている。

大胆に言ってしまえば、

想像力だって嘘の範疇に入ってしまうかも。

さっきの、むかしむかしのアメリカのお話を読むと、


誰のためなのか、何のためなのかが、

嘘と想像力の境目なんだろうかとも思う。


また、場合によっては、誇大広告も過剰宣伝も、

学者や政治家の、何かの都合のための『配慮』も、

下手すると、

とんでもない『嘘』になることがありそう。


嘘が良くないのは、

本当の事が分からなくなってしまうから。


事実でないことから始まったものは、

いつか綻びていくのかも知れないけど

それが明らかにされるまでに

傷つく人がいる事もあるだろう。



「事実と異なる事」というのが『嘘』の定義だとしたら…

良い嘘・悪い嘘という種類分けの境は

どこにあるのだろう?


自分の都合のために、

意図的に話を歪めたり捏造したりすると

引っ込みがつかなくなって、

そのつじつま合わせのために必死になって

きっとさらに真実が見えなくなる気がする。


だから、そんな『嘘』が良くない嘘なんだと思う。

他人の心を傷つけ、自分の心も縛る嘘。

 
『嘘』って何かにつけてメンドクサイものだ。

だから、嘘はつかない方がいい。


特に、人の命に関わるような間違った判断は、

恐ろしい『嘘』になる。

嘘もハッタリも、

それが必要な人達が上手に使えばいいんだろうけど

使わないで済むなら

それに越した事はないんじゃないかと思う。


力を持った人達は、

『嘘』の使い方には十分気をつけて下さい。 

『嘘』を見抜く目を養わなければいけない立場ってのは

寂しいものです。

そこに信頼がないから、

疑ってかかる必要が出てくるわけだから。


『事実』ってのは、

なんだかんだいってやっぱり強いんだな。

無理しなくていいから心地良いし、

何処までいっても変わる事がない。 


**********


ちょっと前のこと、

良くない嘘を生み出して

真実を見えなくした人たちと

それによって傷つけられた人たちを

たくさん見た。

私も辛い思いをしたけれど、

私が一番辛かったわけではない。

真実は変わることなく確かに存在していたので、

揺らぐこともなかった。

正義というものは、

どうやら人によって違うものらしい。

でも、

『声の大きい人』や『有名な人』が

常に正しいというわけでもないだろう。



あの頃、その人たちの理不尽な嘘に挫けそうな時の心の支えは

『天網恢恢疎にして漏らさず』

『因果応報』だった。

怒りでも恨みでも呪いでも何でもなく、

その人の行いに相応しい報いがあることが

一番自然なんだろうと思ったから。




時が過ぎて、その人たちが

今も似たような形で、

そして、

広く知られるようなトラブルになっているらしいと

偶然知った。



あの頃、

どうしようもなくて泣き寝入りした人たちがいるけど

きっと、その人たちにとっても、

もう遠い日の思い出に過ぎないだろう。

私にとっても、

随分と遠くの出来事には違いない。


今回も、その人たちは、自分達の正しさと、相手への非難を

ハッキリと主張しているという。

自分の声や行動が正しく伝わらなかったり、

歪められて受け止められることや、

そのために理不尽な扱いを受けることが

どれくらい腹立たしく、情けなく、悲しいことであるか


今回のことで、あの人たちは知るだろうか?

********************


『嘘』について、もうひとつ。(以下の3つは、クリックでとべます。)



上記の書き起こし(長いです)



アイリーン・スミスさんの書いた”水俣とフクシマに共通する10の手口”より

 1:誰も責任をとらない 
 2:被害者や世論をこんらんさせ、賛否両論に持ち込む 
 3:被害者同士を対立させる 
 4:データを取らない、証拠を残さない 
 5;ひたすら時間稼ぎをする。 
 6:被害者を疲弊させアキラメサセル 
 7;被害を過小評価するような調査をする 
 8:認定制度を作り被害者数を絞り込む 
 9;海外に情報を発信しない 
10:御用学者を呼び国際会議を開く